「無い」ことが日常の苦しみを減らす〜消費に関して思うこと

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「無い」ことが日常の苦しみを減らす〜消費に関して思うこと 片付けノウハウ

親と同居しながらオヤカタ(親の家の片づけ)をしているアラフォー主婦パピンです。

在宅介護を経て入院となり、コロナ禍で面会もできない70代の母のことを毎日頭の片隅に置いています。

一方で、癌がみつかったものの、検査の結果ステージ1だということがわかり、主だった治療はせずに様子をみることになった80代の父。

自覚症状も無くとても元気なので、今のうちに父が「ずっと気になっている」と言っていた事務所の屋根裏を片付けたらどうかと提案しました。

すると、「いやだ。きっと片付けが終わってしまったら俺の寿命は尽きてしまうんだ!だからもう片付けないことにしたっ!!」と、開き直りの返事が・・・

父と私はどこまでいっても平行線です。
親と同居の大変さ。
最近、苦しいなぁと思うことが増えてきて、この苦しみはどこから来るものなのかを考えてみました。

というわけで、今日は日常の中に潜む「小さな苦しみを解放する」お話です。

消費は買うことよりも大変だと知る

私の実家はとても消耗品在庫の多い家でした。

ストック症候群だった母の所業により、私たち家族が引っ越してきた時には、家のありとあらゆる収納場所に食品から日用品まで様々なストックが詰め込まれ、1ミリの空間も無い状況だったのです。

約2年をかけて、売れる物は売り、プレゼントできるものは配り、どうにもできないものは自分たちで消費。
千里の道も一歩から。
何かを使い終わった時には夫と「やったー!〇〇をやっと使い切ったー!」「おー!やったねー!」と喜び合う始末(笑)

買うのは一瞬で出来ることなのに、消費するってなぜこんなに大変なのでしょうか。

消費は労力を伴う

「消費する」という行動を分解してみると、

買う→在庫管理する→(物によっては)メンテナンスする→使い切る

というステップを踏みます。

日用品から食品まで、家の中に入ってきたあらゆる品を脳は記憶していて(自分では忘れたと思っていても記憶には刻まれている)、それらを「消費しなくては・・・」と脳内メモリーはフル稼働。

物が多ければ多いほど、「持っているだけ」でそれらの管理と消費の手間がかかるのです。

「買う」という行動より、「消費する」方が大変だと感じるのは、一つの物に費やすパワーやエネルギーがかかるからだと考えられます。

消費しきれる期間を考える

年齢を重ねると、消費すること(その行為)自体が大変になってきます。
なぜなら、先にも述べたように消費にはエネルギーが必要だから。

食べたいという気持ちがあっても、沢山食べられなくなる。
使いたくても使いきれない。

加齢により、そうなっていくのは自然なこと。
その自然に逆らわずにいれば、おのずと買い物の頻度は減っていくようにも思えますが、私の両親は違いました。

「無いと不安」
「常に新しい物が欲しい」
「試しに買ってみたい」

背後に山のように積まれた在庫があっても、買い物をつづけました。

母はそれらを使いきれないまま、今は病院のベッドの上です。

どんなに素敵な服を沢山持っていても、最後はオムツ、病衣、リラックスウェア、介護シューズ。

高い化粧品を購入しても、今はすっぴん。
(認知症を患っているため、誤飲の可能性がある化粧品などは病院に持ち込めません)

母が残していった物で使えそうな物は、私が一つずつ消費している毎日です。

私自身が欲しいと思った物を買える日が来るのは何年先になることやら・・・。

また、別な例を挙げると、数年前に亡くなった知人(83歳で他界)のご自宅に伺った際に、奥様からお願いされたのは「未使用品の引き取り」。

段ボール2箱分くらいの未使用未開封の下着の山の中から、使えそうな物があれば持って言って欲しいということでした。

残念ながら他界されたご主人は小柄な方だったため、私の主人にも私の父にもサイズが合わず、頂くことはできませんでした。

高齢になってからの買い物は消費しきれる期間を考えながら、都度購入しないと結局無駄になってしまうのだなと考えさせられた一件でした。

私自身の身の上で考えると、体に不自由さを感じ始めたら、素敵服からの卒業を考えるタイミングだと、母を見ながら思っています。

「無い」ことで苦しみから解放される

母の病状が急激に悪化していくのをそばで見守り、また80代の父もいつ逝ってもおかしくない年齢に差し掛かっているのを見ると、「今日を生きられるだけ」の衣食住があれば十分だと感じるようになったこの頃。

物価の高騰や、不安定な世界情勢、災害時のことなどを考えると備蓄もある程度は必要だとは思います。

でも、明日自分が確実に生きているという保証はどこにもない。

それならば、今日を生きられるだけの物が手元にあれば、それでいい。
沢山の物の管理に追われ、毎日を疲弊して過ごすよりも、持たないことでそれらの苦しみから解放される方が私は幸せです。

父が生きている限り、どうやっても片付けられない物(手をつけられない物・場所)があることが苦しい。

けれど、手元にある物を消費して無くしていくことはできる。

「消費する」「無くす」ことで、少しずつ苦しみを減らしているこの頃です。